太閤記 (上下) 司馬遼太郎 |
秀吉の子どもの頃はものすごい悲惨でした。
中村の百姓の家に生まれ、程なく父がなくなりいつの間にかとなりの男が父親になり、その子どもが生まれて継父との折り合いの悪さから寺に出されるも、家出。
高野聖を頼っていたのに彼らは殺され一人で商売をしながら、誰かに仕えようと考える。
もともと百姓だけど、秀吉の魂はどちらかというと天下を取る事をゴールとした商人のそれに近いようだ。
とにかく余りに悲惨な幼少を過ごしてきただけに却って変なプライドや慣習から脱却したところでものを考えられたんだろう。
子どもの頃からさして習わぬのに計算文字など読めた鋭さがあり利にすごいさとく、人を見る目や知恵は周りの人が末恐ろしがるほど。。。
秀吉の人生に終始一貫〔晩年の秀吉は大分人が変ったようになったけど)してたのは、
●人を殺したくない〔むやみに殺さないし、降伏してきたものに寛大だったから、戦わずして降伏する武士が次から次へと現れた。
●調略中心でもう戦をする前から勝つようにしておく。
●戦はまず最初に土木工事と調略である。
城を取るのも、城ごと湖に埋めるような土木工事から先にやるような武将は他にまずいなかった。
戦の前に、まず土木工事だ話はそれからだなんていってたようだし。
●人を使うのがものすごくうまい。
●信長の子どもや柴田勝家といった重臣を倒すという一見腹黒そうに見えることも全てなるべく明るく陽性にからっとやるのでみんなだまされる〔すごい名俳優である。)
●まだ完全に味方になってない人のところに、軽装、お供も余りつけず急にずけずけいって相手のどぎもをぬく。
●竹中半兵衛、黒田かんべいなど、優れた部下がみんなこの人のために何かやってやらねばと思わせる魅力がある。
●褒美はすぐに取らせて、太っ腹である。
●声もでかかったらしいが何でも大きい話が好き
●商人の感覚がある。
商人のそれに似た感覚というのはえらくなっても続き
信長に控えていた頃は信長から10の領地をもらえばそれを元手に30の領地を手に入れて、信長に返すという信長を株主、自分を運用家のように考えていた節もある。
また、全国統一が近づいても、九州の博多をすごく欲しがったのは大阪の堺とともに、貿易の中心にしようと思ったからで
常に商売を振興させ富や貿易にも心を配っていたのがほかの戦国大名と違うところだ。〔信長もそうだったが)
信長との出会い。。。。色々な作家に書かれてるけど信長がいなければ秀吉は単なる商売人程度に収まっていたかもしれない。
信長は人を道具として考えており、道具が有用ならどんどん使いそうでなければ叩き割ってしまうような性格である。
人に信用されるかどうか、この人なら信義に厚く自分も安心して任せられるという世間からの信用、信義がなかったため生きていたとしても天下は取れなかっただろう。
黒人すら、面白くてそばに置いた位だから、秀吉の事を猿猿とかわいがり、血筋とか余りこだわらなかったのが幸いした。
秀吉は、人たらしの天才というが、まず苗字をつけるときに、先の重臣である柴田勝家、と丹羽長秀の羽と柴をもらい羽柴としたらしい。
すばまたの一夜城など先輩たちを出し抜いてどんどん功を重ねて言ったからうらまれないようにという配慮らしいが。。。
名前付けについては、例えば最初の領地の長浜にしても、大きい方がいいというので浜に長をつけたり
大阪も最初は「さか」としかついてなかったのを、大きい方がいいと大阪に変えたのも秀吉らしい。
秀吉の大法螺は結構すごく、実際に法螺じゃなく晩年やろうとしていたからすごいんだけど
信長の養子をもらったときに、領地を全部養子にやるといい、
次は中国地方を切り従えて信長の側近にやるといい
その次に九州を切り従えたらそこで一年だけ支配したらその金で、朝鮮に出兵し
朝鮮を従えたら、中国を支配するとまじめに言ったらしい。
光秀との戦いの前に占い師に星占いをさせ、もうすぐ消えそうなのは光秀の星で秀吉の星は一番明るい星だと占い師が言うと違う、俺は、朝になったら出てくる太陽だと答えたほどあっけらかんとしてた。
その秀吉も唯一てこずったのが、家康。。。全く秀吉の調略に乗らない。。
とうとう信長の息子の求めに応じて秀吉と一戦まみえようかというところまで来たんだけど。。。
双方動いたら負けなのはわかってるので
何とか相手が攻めてくるのを何週間も待っているうち
痺れを切らし挑発活動に出たらしい。
なんかすごい侮辱した文が送られた時に、秀吉はとさかにきてそのにらみ合ってる真ん中へんまで行き
向こうの兵士やらがみんなたまげて見守る中
「見よ」やとお尻知りを向けたかと思うと陣羽織をあげてお尻をむけ「これでもクラエ」と大声でいって
唖然とする敵味方の中脱兎のようにまたもとの陣地に戻ったというエピソードがある。
結局家康も秀吉の味方になり天下を統一するのだが、この小説は晩年の失敗だらけの秀吉にはあえて触れず
やさしい終わり方をしてるのが好感が持てる。
秀吉の辞世の句である
露とおき露と消えぬるわが身かな
浪花のことは夢のまた夢
〔素材提供atnet)