項羽と劉邦

 項羽と劉邦の大雑把なストーリーと、大雑把な感想を書いてから、心に残った細かいエピソードを触れてみたいと思います。

 中国の巨大さから群雄割拠が当たり前だったところが、初めて中央集権という法治国家で支配した秦の政治からこの話は始まります。

項羽と漢の高祖たる劉邦という対照的な人物の秦の時代からその2人の戦いの終わりまでを追ってるこのストーリーは、一般的には漢の高祖たる劉邦の方が包容力があり、人の上にたち、最後に天下を治めるものにふさわしいものはどういう人物かを考えさせるものなんでしょうが。。。
元来のへそ曲がりの私は、どちらかというと項羽というこれまた不思議な魅力を持つ人物に肩入れしてしまいしました。
〔大体、三国志の曹操とか、宇宙戦艦大和のデスラーとか、敵役みたいのが好みなんですねー)

今まで百戦百勝してきた項羽が、ついに最後の戦いで包囲している敵の中に回りに自分の味方と思っていた心のよりどころの楚軍の歌〔楚歌)が聞こえた時
自分の終わりを悟りました。〔四面楚歌の由来)
特に最後の寵愛する虞美人を切り自らを、劉邦に倒されたのでなく、天が私を倒したのだといいながら敵陣に自ら死ににうって出たところでは
なんかなんともいえない哀れさを感じてしまいました。

昔から、読書感想文なるものは好きでなく、学校でも最初と最後だけチラッと見てあとはあとがきを参考に適当に書いていた私の独断の感想文なのであしからず。

まず、項羽と劉邦が志を抱く秦の時代から
秦の時代というのは短い間でしたが、中国の歴史の中ではエポックメイキングな時代でもあることがわかります。
それは、国々に王がいて、貴族がいた時代から、たった一人の皇帝のもと、官僚組織、中央集権で治めたため、何だこいつに取って代われば俺でも支配者になれるのかという不思議な概念をこの時代に植えつけてしまった事。

10年ぐらいの在位の間に土木工事〔道路や万里の長城など)ばかりやって人民を酷使したため不満をためる反面、始皇帝はその道路に自ら車に乗って中国中を巡回すると言う後の王様にはありえねーって事をやってました。
 そして劉邦が、その始皇帝の姿を見たとき「大丈夫、まさにかくのごとくなるべき也」(男はこうなきゃだめだ)とつぶやいたのに対し
項羽は「彼取って代わるべき也」と大声でさけんだといいます。

 始皇帝の行脚は、不老不死の薬を求めるためという説もあります。
 この行脚の途中で始皇帝は病になくなるわけですが、結局宦官である趙高が遺言を捻じ曲げ優秀な長男である扶蘇でなく
趙高の思うが侭の胡亥に勝手に書換え、旅の途中で死に絶えた始皇帝を死体のまま巡回させて挙句には長男を自殺においこませるという末路に。

馬鹿という語源には諸説あるようですが、秦の時代に趙高が鹿を一匹持ってきて、これは馬でございますといい、
馬でないという自分の意見に反するおつきのものものを片っ端から死刑してしまうという寓話がある。〔これが馬鹿の起源?)

 そんなこんなで、野心にとんだ勢力が地方でどんどん反乱を起こすようになるのですが
ここで項羽と劉邦の自分的履歴書を書いてみました。

その2に続く